【塾長のつぶやき】嫌なニュースから思うこと
最近、嫌なニュースが多い。その中でも、園児がバスに放置されて亡くなった事件には胸が締め付けられる。この種の問題は、保育園や幼稚園だけにとどまらず、老人の介護施設や、その他の施設でも、同様の、また、違った形で現れる問題です。
一人の命を奪ったことは許されることではありません。断罪されて当然ですが、根本にあるのは、人間をあたかも「商品」のように扱ってしまっていることにあるように思えてなりません。施設に関わる人だけでなく、多くの人が、人間の命に対しての尊厳に欠けているように思えてなりません。
「どの命もかけがえのないもの」という当たり前のことが、どうも当たり前ではなくなっていると思わざるを得ない。そいう事件が次々に起こっています。
これは、もはや日本社会の抱える「病」であり、当事者を断罪するだけでは、こうした事件はなくなりません。この「病」の根っこの部分に真剣に取り組んでいかなければ、また次の犠牲者が出てしまうことでしょう。「あの保育園に通わせていなくてよかった」とかで済む問題ではないのです。
ちょっと話はそれますが、こういう実話があります。イスラエルのある幼稚園が頭を悩ませていました。子供のお迎えに遅れてくる親が多いのです。もちろん、何度か時間を守るようにお願いしたのですが、いっこうに改善されません。そこで仕方なく、お迎えに遅れた人には料金を課すことにしました(罰金のようなものです)。
するとどうなったでしょう。幼稚園の期待に反して、お迎えに遅れる親が増えてしまったのです。みなさん、どう思われますか。その親たちは、その分のお金を払えば、余分の時間、子供を見てもらえるのだと解釈したのでしょう。つまり、幼稚園側からお金に対するサービスを受けることができると理解したのです。(お金を払うからもう少し置いといて/預かっておいて)
これは、自分の子供を「商品」に置き換えてしまっていませんか。私の子供が保育園に通っていた時、週に1日、平日が休みの時があったので、よく、子供たちを迎えに行っていました。時間になると多くの親たちが子供を迎えるために園に来ていました。が、何人か親がまだ迎えに来ていない子供たちがいました。その子たちは他の子の親が迎えに来ているのを羨ましそうに見ていました。ちょっと悲しそうな顔で。私は、今でもその子たちの表情を覚えています。少し可哀そうに感じました。でも、遅れて迎えに来る親はその顔を見ていないのです。そりゃ、親が迎えに来たら、子供たちは嬉しくて親の元に飛んできますものね。
そういう人たちは、遅れてくることで保育園の先生にどれだけ負荷がかかるかなど考えないのでしょうか。負荷がかかって疲れてくると、だれだって集中力が切れてきます。ふっと子供から目を離してしまうこともあるでしょう。それが事故につながってしまうこともないとは言えません。また、疲労によってその先生が休むこともあるでしょう。誰かが代わりにその先生の担当の子供たちを見ることになります。代わりの先生をすぐに手当てできればまだいいですが、出来ない場合もあるでしょう。すると、どうでしょう。目が行き届かないこともあるでしょう。
つまり、親の行動が(約束を守らずに遅れてくる)、事故につながることになりうる(自分の子であろうと、他の子供であろうと)ということをイメージできないのでしょうか。そいう親が多くなると働いている人はどうでしょう。どうしても子供一人一人に対する愛情が薄れてしまう可能性がないでしょうか。「いのち」ではなく「商品」と言っては酷かもしれませんが、無意識のうちに、そういう「モノ」として扱ってしまっているということになりかねないのではないでしょうか。つまり、このケースでは、利用者にも大きな責任があることになりますよね。
次の事故が起きないためにはどうすべきかを本当に真剣に考えないと、この種の事故はまた起きます。その根本は、無意識のうちに人を商品のように扱う社会そのものにあると思います。日本社会は(日本だけではないでしょうが)、非常に危ない状態にあると言っていいと思います。モグラたたきをしていても、事態は改善されません。
##お知らせ #LEO
#leo21web
元記事:コチラ