【塾長のつぶやき】つながりを作れない日常
先日、私が感動した言葉として、メルケル前ドイツ首相のスピーチを紹介しました。くどくなりますが、その中の文章を抜粋してみます。
……このスピーチを聞いた人たちは、「首相は国民の方にしっかりと目を向けている」と感じたと思います。そして、信頼できる人との「つながり」を強く感じたのではないでしょうか。自分たちの仕事が、人の命を守ることに寄与しているということを感じたのではないでしょうか。自分の仕事に「誇り」をもてたのではないでしょうか。みんながつながって、社会が成り立っているのだということを確認できたのではないでしょうか。だから、この危機の中、みんなで協力して生きていくんだというきもちになったと思います。また、それぞれの努力に敬意を払って生きることをあらためて知ったのではないでしょうか。何よりも、一つの「いのち」はすべて平等でかけがいのない貴いものだということをあらためて感じたのではないでしょうか。……
危機が起こった時、私たちは「つながり」「絆」の必要性を強く実感します。その象徴的な出来事が、東日本大震災であり、September 11 でした。そして、もちろん、今回のコロナの蔓延。(不思議なのですが、この3つの災厄は、約10年おきに起こっています。)
こうした災厄が起こった時に、いつも思い出すのが、私の授業で用いる次の文章です。
Disasters also bring us together, uniting us against a common enemy. “When a disaster occurs, we abandon the individual goals that underlie most of our behavior, and we identify with the community as a whole.” says sociologist Dennis Mileti. “People give to each other in disasters. Strangers work for three days and nights without sleeping, trying to rescue strangers.” That altruism, he says, also applies to those who watch from afar. “People who are drawn to their TVs after disasters are not cold-blooded. Their empathy is kicking in. What we’re observing is the fundamental social mechanism that has enabled our species to survive: When in crisis, we come together.”
危機が起こった時、我を捨てて、ひとつになって、今、まさに危機に瀕した人を救おうと試みる。現場にいずに遠くにいたとしても、何かできることはないか、何か力になりたいと行動を起こしたり、気持ちを持てたりするからこそ、私たちの種はここまで生き延びてきたのだと思います。
しかしながら、時間が経つと、私たちは忙しい日常生活に引き戻されます。情報の波に埋もれながら、時間はあっという間に過ぎ去っていきます。「時間を有効に使はねば」、「無駄をしないように」、「コスパの良いものを選択して」といった具合に、日々が過ぎていきます。そうしていくと、人とのつながり、他の人の仕事への敬意などが、ほとんど意識されることなく時間を過ごしてしまいます。これが行きつくところは、「自分さえよければいい」、「自分が乗り越えられればいい」という方向に向かうことになります。最初に引用した「みんながつながって、社会が成り立っている」といことをすっかり忘れてしまいます。つまり、私たちは、「分断された社会」に住む方向を自ら選択しているということになります。そこでは、とても嫌な言葉が生まれます。例えば、「勝ち組・負け組」です。こうした言葉を平気で口にするということは、弱者は放っておけばよいということではないでしょうか。「その人の責任でしょ」などと平気に口にする人は、どれだけ、自分の生活が、その人が示唆する弱者の仕事に支えられているかを想像できない人間になってしまっているということです。それは、私にとっては、とっても恥ずかしいことに当たります。「自分の力でなんとでもなる」、「自分で切り開き、コントロールできると」生きてきた結果が、この地球をズタズタにしてしまったということではないでしょうか。そして、こういう生き方をしていれば、当然、自分の社会もズタズタにしてしまうということです。
私たちは、自分の親を選択して生まれてきたわけではありません。生を授かったわけです(与えられた)。そこに私たちの選択権など存在しません。このように、私たちが住む世界、社会というのは、自分では選択できない様々なもの・ことによって成り立っています。すべてを意志によって選択しているわけではないのです。時間に流されてばかりいるのではなく、時には、じっくりと立ち止まって、私たちの周りを眺めましょう。何が大切なのか、何が美しいのか、何が求められているのかを考えてみましょう。そういう時間を作りましょう。
いつの間にか、「無駄」「空白」「余白」といったものは必要のないもの、あるいは、悪とさえ認識されているようですが、私たちには、その無駄な時間・空間が、実は、とても大切なのではないでしょうか。それを剝ぎ取ってしまったため、大切なものを見落としてきてしまい、今では、まったく見えないというより、大切だということさえが分からなくなっている人が多いように思えます。この小さな弱い動物であるヒトを生存させてきた感性が失われている。その感性から生まれた「生きる智慧」が失われている。つまり、そこにこそ、私たちがこの地球で生きていくための術を学べるものが潜んでいるのです。生きる術とは何かのヒントを囁いてくれるのです。それが見えなく、それを感じられなく、その声を聞こえなくなったヒトは、自ら、生存能力を放棄して、無機質な何ものかに管理されやすい存在へと向かって進んでいると思わざるを得ません。
##お知らせ #LEO #塾長
#leo21web
元記事:コチラ